ぶんぶくな話
懐かしいからっ風が、昔と同じように土埃を舞い上げ私を出迎えてくれました。
前日までの東京講座の帰り道のこと。寄り道した群馬県館林市を車であっちにいったりこっちにいったり、ウロウロしておりました。
「地図なんか見なくても行けるわい」と心でつぶやいたものの、19年ぶりの私の記憶は思った以上にあやふやなものになっていました。そして、迷いに迷い、目的地の「茂林寺」に着いたのは、東北自動車道を下りてから小一時間も経ってからでした。
茂林寺は、昔話「ぶんぶく茶釜」のお寺です。前に見た時と変わらず、山門では大きなたくさんの陶製のタヌキが出迎えてくれました。実にひょうきんな、それでいてとても不思議な空間です。でも、ここで私が探したのは、タヌキでも和尚さんでもありません。探していたのは、地盤沈下調査のために土に埋め込んである基点です。どうしてかというのは、このあとじっくりお話します。
結局それは見つからないので、今度はお世話になった方を探すことにしました。でも、その方のお名前も顔だちも忘れていました。記憶していたことは、白髪だったこと、茂林寺のすぐ近くに家があり、日当たりのいい部屋があることだけでした。
茂林寺前の道路を、ゆっくり車を走らせて一往復半。探していたお宅は、案外すぐに見つけることができました。ほぼ確信してその庭先に車を入れはじめると、驚くことにその方がちょうど家から出ていらしたところでした。変わらない白髪頭を見て、すぐに分かりました。私は嬉しくなりひとりでに顔が笑ってしまいました。19年と2ヶ月ぶりの再会です。
実は、19年前の20才の時、私は群馬県の東南地域で地盤沈下の測量のアルバイトをしていたのです。実家の養蜂の仕事をしていたその頃、冬期間などのひまな季節は、好んであちこちにアルバイトに行くようにしていたのでした。
ことの始まりは、1月のある晩、バイト仲間と借りていたアパートに、当時の国鉄に勤める友人が遊びに来たことでした。私はちょうどヤマト運輸のバイトが終った時で、話題は次のバイト先のことでした。すると彼は、ニタッと笑いながら「今晩東京行きの臨時便が出るよ」と教えてくれたのです。たちまち都会好きな私がムクムクと現れ、2時間後にはその夜行特急列車「やまばと」に乗っていました。
たしか、都内をまわれる周遊券つき往復切符で11200円でしたので、若い頃は度々一人で東京へ遊びに行ったものでした。山形駅から上野駅へは、当時6〜7時間はかかった気がします。夜行なので、誰しも座席に横になって寝ていました。床に新聞紙を敷いて寝ている人もいました。それはそれで、みんな心を開き合った仲間みたいで、好きな空間でした。
その日、大好きな東京へは、朝6時半頃つきました。駅を出て右手二階のハンバーガーの店で時間をつぶしてから、キヨスクで求めた「アルバイト情報」を片手に、いよいよバイトを探しはじめました。アメ横では、履いていたスニーカーを捨て、新しい真っ赤なスニーカーも買い求めました。
しかし、住み込みでいい条件の仕事はなかなか見つかりませんでした。皿洗いがないかと横浜の中華街にも行きましたがだめでした。日雇い人夫に仕事を斡旋するような所もあったのですが、浮浪者のようなうす汚く人相が悪い人がいっぱいいて恐くて入れませんでした。そして夕方、新しく買った「アルバイト情報」に、目黒の測量会社にいい条件の仕事があるのを見つけました。簡単な面接を受けると、すぐにOKがでました。「ついに東京で働ける!」私は喜びました。ところが、それも束の間。すぐに現場へ向かうことを告げられたのですが、その場所はなんと東京を離れた群馬県だったのです。
その仕事はとてもつらいものでした。それは地盤沈下の測量で、一年間でどれくらい下がっているかを、基点と基点の差を比べて割り出すものでした。基点は、神社仏閣や学校、役場などの敷地の一画に埋め込まれていました。茂林寺で、私はこれを探していたのです。
計測方法を簡単に説明すると、まず一人が3メートル位の長い定規を基点に立てます。数H先にある次の基点に向い、数十m程進んだ所から技士が機械をのぞき計測します。定規を持つ係は、計測が終わるまで2本の棒を支えに使って定規が動かないようにじっとしています。終わると、計測器は180度反対を向いて、さらに数十m進んだ所で待機しているもう一人の定規を計測します。その間に、私は定規を背負い、技士を通りこし、もう一人の定規持ちを通りこした数十m先で待機します。これを基点から基点へ延々繰り返します。一日でおそらく10km近くは歩いたでしょう。
つらかったのは、歩くことよりも風でした。なにしろ「かかあ殿下とからっ風」で有名な赤城おろしです。ドカジャン(作業防寒着)を2枚重ねて着ても、冷たい風は体に染みました。計測が終わるまで動けないので、体はどんどん冷えていくのです。そのからっ風は、初日から私を凍えさせました。
仕事を終え、入った小さな旅館の部屋には、50代後半の痩せていて顔がどす黒く目つきの悪いうす汚い男と、あやしい若者がいました。自己紹介しあって年輩の方が後藤さん、若者は堀内くんということが分かりました。堀内君は私よりも4つも年下でした。
緊張している私に、後藤さんは「寒かったろう」と、コーヒーカップに、インスタントみそ汁を作ってくれました。ちゃんと洗ってるのか疑問なカップでしたが、冷えきった体にその優しさは染みていきました。同時に、得体の知れない人だと感じていたことを恥ずかしく思ってしまいました。その旅館には、人相が悪かったり入れ墨があったり、汚いかっこうだったりの、得体の知れない仲間は、他にも10人程いました。
翌日から、私は堀内くんとペアをくみました。毎日毎日、とぼとぼとぼとぼ歩きました。作業中は、技士とも堀内君とも離れているので、話をすることはできませんでしたが、堀内君が計測している脇をぬけて先に進む時に、いつもその技士の悪口を一つ言い合うのが、二人の楽しみでした。その技士は、とても時間がかかる人で、定規を持つ私たちは寒さに絶えられなくて足踏みを始めてしまうのです。それを注意されると、益々腹立たしくなってしまうのでした。私が群馬に着いた日、その技士のもと働いていた人は、絶えられなくて、怒って道具を放って帰ってしまったそうです。それくらい群馬の風は厳しいものでした。山形の何倍も寒いと思いました。
ただ、風のない日はあったかくて、弁当を食べたあとの屋外での昼寝は、とても安らかでした。群馬の田舎は見なれない風景でした。はじめて見る広い麦畑があっちこっちにあり、グラウンドをならすようなローラーが畑においてあるのがとても不思議に思えました。
同じ苦労を体験すると、仲良くなるものです。毎晩、おいしくない紙パックの安い日本酒を買ってきて3人で飲みました。後藤さんの生まれは北海道。東京を中心に渡り歩いてきた日雇い人夫生活のことをよく話していました。「住み込みの仕事についたら、少し仕事をして前借りして逃げていくのが賢いやり方だ。ほんとは、それだけ貰う価値がおれたちにはあるのだから。」と、得意げに教えるように話していました。堀内君は、所属していたという暴走族のことやシンナー中毒の体験談を話してくれました。私は、おおげさな作り話を入れて不良高校生だった話をしました。そして、私もみんなと同じ根なしの労働者と偽ってしまいました。
1月15日の成人の日は、「今日は大切な日だぞ。おめでとう」と祝ってもらいました。3人は仲良しでした。仕事も慣れてきて、がんばろうと思えるようになりました。
ある晩のこと。後藤さんが会社の人となにやら話していました。そしてその日の深夜、ゴソゴソという音で目を覚ましました。すると、「世話になったな。あばよ」と、後藤さんが出ていってしまったのです。翌日、会社の人が悔しがっていました。後藤さんは、賢いやり方を見事に使ったのです。あたかも、初心者の私たちに模範を示すように。
3週間がたち、ようやく仕事の終わりが見えてきた頃、別の地区を終えたグループが応援に来てくれるようになりました。地元雇用のアルバイトの人達です。そこに白髪のおじさんがいました。いつもしょぼくれた顔で仕事をしている私たちに、たびたび話しかけてくれました。毎日黙々と歩き続けたことは、ある種の修行だったかも知れません。精神的に疲れ果てていた私も堀内君も、白髪のおじさんが「そうかい、そうかい」と聞いて励まして下さる家族的な優しさは嬉しいものでした。
最終日も近い頃、いつものように基点を探して寺に入ると、そこにはひょうきんな陶でできた大きなタヌキが何匹も立っていました。ぶんぶく茶釜のお寺だったのです。
その日の一服は、すぐ近くの白髪のおじさんの家でした。玄関のとなりの小さな部屋は、大きな窓から日光がいっぱい射し込んでいました。奥さんの入れて下さったおいしいお茶で、あったかくてとても安らかな場となりました。その時私は、「この家のことだけは、絶対に忘れないでいよう」そう心に決めたのです。
まもなく、過酷で長かった測量の仕事は終わりました。堀内君には、私の電話番号を教え、どこか同じ現場でまた一緒に働くことを約束して別れました。親友といえるほどの仲になっていました。私の真っ赤なスニーカーは、土埃で黒く汚くなり、底のゴムは擦り切れて大きな穴が空いていました。
山形に帰ってすぐのこと。全国ニュースを見て震えてしまいました。画面には、後藤さんの顔写真が映っていたのです。そして、「殺されたのは、自称北海道出身の…」。信じられないことに、東京の新しい現場で誰かに殺されてしまったのです。
堀内君は、春になって一度だけ電話をくれました。
「ねえ、次はどこへ働きに行く?」
「ごめん、しばらく家の仕事するよ」
「なーんだ」
しらけた口調になり、電話は切れてしまいました。それきり彼から電話は来ません。
表札を見て、白髪のおじさんのお名前は栗原さんということが分かりました。そして、忙しいにも関わらず、あの日光のいっぱい射し込む部屋に通して下さいました。19年前のことを話すと、笑顔で「そうだったかい」とうなずきながら聞いてくれました。75才とのこと。栗原さんは、毎年多くの労働者と接していらしたので、私だけの記憶はなかったようです。奥さんは「いい男だから忘れてないよ」と冗談を言いながら、あの時のようにおいしいお茶を入れて下さいました。手みやげがわりの蜜ロウソクの包みを開いて、今の仕事のことや二人の子どものことを話すと「そうかい、そうかい」と喜んで聞いて下さいました。
帰りがけには、「よく来てくれたな」と何度も言いながら、畑からほうれん草を収穫して山盛り持たせて下さいました。
おだやかな空っ風は、私のところに梅の花のやさしい香りを運んできました。
(平成14年11月通信「ハチ蜜の森から」No.23より抜粋)