「今頃、何しにきた!」
「ざいご、山、大雪、朝日町」
県内で一番都市部にあたる山形市の高校へ下宿して通っていた頃の、私に対する一部級友のからかい文句である。級友ばかりではない、その親も、先生も、大げさではなく多くの人が田舎出身の私に、同情するような言葉をくれた。本人たちは、軽い気持ちだったのだろうが、それが積み重ねられていく生活は、十六、十七才の私にはただ悔しいだけの記憶となった。
しかも悲しいことに私は、そんな人たちよりも山と雪の郷里「朝日町」の方を恨んでいた。山なんか全部切ってしまえばいいと思っていた。休日に帰れば、今度は私が地元の高校へ通っている友に都会らしさを自慢していた。
「そんなに山形市がいいなら、もう帰ってくるな」母親の一喝にシュンとしたこともあった。
便利さ、楽しさ、新しさ、自由さ・・・。幸せの価値観は全て、より都会的な所にあった時代。私は大いに山形市での生活を満喫した。十六、七年前の話になる。
高校3年の秋、学校の壁にはたくさんの雇用表が張りつけられ、私は東京就職組にいた。だが、就職率98%を誇るその学校方針は「就職したら絶対にやめてはならない。やめたら後輩が雇ってもらえなくなる。」純粋に受け止めた私は、壁のありきたりな雇用表に未来が見つからず、結局ふるさとに戻って家業を手伝うことにしてしまった。自分の心を探った時、それしか見当たらなかったのだ。でもそれは都落ちではなく、むしろ心は凱旋帰国。誰もが自分の都会らしさを期待してくれていると思っていた。
しかし、現実はまるで違った。想像以上の田舎の足かせは、私にとってまるでアリ地獄のように感じた。青年団、消防団、部落若衆会、草野球、商工会、そして付き合い・・・。それらが町の運営やコミュニケーションに大切なことは分かっているものの、若い私には耐え難かった。やがて人付き合いがおっくうになり、もっと自分だけが使える日曜日を欲した。なにしろ山形市の友達は、何一つ縛られているものがなっかたのだから。
私を苦しめたのはそればかりではない。町の外へ出ると、あいかわらず田舎暮らしをばかにする者がたくさんいた。だから、初対面の人に朝日町在住なんてけっして言えなかった。テレビや雑誌も、地方をばかにしていた。自然相手の、家業の養蜂にも魅力を感じられなくなった。東京へ就職して帰郷した友は、東京の言葉で自慢を語り、流行おくれの田舎の生活を微笑した。私はなまりや方言を矯正し、二つの言葉を使い分けるようになった。あおして派手なロックバンドと、朝日町を全て否定することで自分を魅き立たせていた。
大きく卑下していたから大げさに思ってしまったことも確かにあるだろう。しかし、時代は確かに都会を向いており、誰も地方を見向きもしなかった。地方を見下していた。
いつか私は、好きなロックで東京へ出たいと思うようになっていた。そんな秋、じいさんが亡くなった。最後まで意地を張って、山に別居して暮らしていたせいだと思った。程無くじいさんの家は、道路拡張に掛かり、いろんな思い出や生活道具と共に取り壊され平らになってしまった。さすがに私は、その事実を認めたくなく、暫くの間見に行けなかった。
22才の時、一度だけ夢のようなチャンスがめぐってきた。何かの間違えだったのか、バンドの練習をレコード会社のCBSソニーが見にきたのだ。ともあれ返事の電話が来るまでの小一ヶ月、心は舞い上がり、東京へ渡る橋をもう半分も歩いていた。
そして一月後、
「もう少し頑張って下さいね。それじゃ」
ガタガタガタガタガタガタガタガタガタ
ガタガタガタガタガタガタガタガタガタ
ガタガタガタガタガタガタガタガタガタ
橋は壊れた。
その日を境に、メンバーが一人抜け、二人抜け、やがて解散した。絶望。 「このまま田舎で、降り積もる落ち葉に埋もれてしまうのか・・・」
私の中で頑張っていた諸々の積極性が萎得ていった。
もうろうとした日を過ごし、春が来た。
「安藤、ヤマメ釣りに案内してくれ」都会らしさを絵に描いたような、少々憧れていた先輩から電話がきた。なんで朝日町へ遊びに?という疑問はあったが、昔の遊び場だった得意の朝日川を案内した。遊びとして山の中に入るのは8年ぶりだった。
釣りの途中、いつのまにか先行の先輩と離れてしまい、山と山にはさまれた川原に私は一人になった。するととたんに、木々のざわめきが大きく、そして瀬の音が迫って聞こえてきた。妙な切なさと恐さを感じ、ついにいても立ってもいられなくなり、逃げるように川を出たのを覚えている。
そして今度は、気が乗らなかったが、昼食をとりに、さらに奥にある山小屋『朝日鉱泉ナチュラリストの家』を訪ねることになった。驚いた。なにしろ、あんな山奥にあか抜けた建物と都会ナンバーの車がたくさん止まっていたのだから。しかも屋内に入ると、共通語で話すお客さんがたくさんいた。とたんに私は、先輩に得意がっていた事を思い出す。コーヒーが美味しかった。窓からは、どっしりとした大朝日岳がじーっとこちらを見ていた。食堂の隅では、山小屋の主人が無愛想に本を読んでいた。
翌日、川原での妙な気持ちが気になり、今度は一人で行ってみた。やはり、同じように、まるで「今頃、何しにきた!」と、叱られているような気持ちになった。
我慢して川原の玉石に座っていると、昔のことが次から次へと思い出された。川で泳いだこと、ヤスでヤマメやカジカを捕って流木であぶって食べたこと、みんな履いていた短靴のこと、“かぶだれ”のこと、沢蟹のこと、そして死んだじいさんのこと。いつのまにか川原は、あったかくて優しい居心地のいい場所に変わっていた。
自分の中の価値観がぐらぐらとひっくり返って行くのが分かった。都会の幻想を追いかけていた自分が愚かしく思え、自分の気持ちに正直になることの心地よさに初めて気が付いた。肩がふっと軽くなった。
「今頃、何しにきた!」何がそう感じさせたのか。森の精霊、山、川、木々、生き物たち、死んだじいさん、山暮らしをしていた先人たちの霊、風、大朝日岳、山小屋の主人・・・?
厳しいけどあったかい、まるで子供時代に遅く帰って母親に叱られたようなあの気持ちは、自然という鏡に映し出されてしまう本当の自分の心との葛藤だったのだと、随分後になってから気付いた。不思議な体験だった。
それから私は、人が変わった。打って変わって「山だ自然だ」と騒ぎ始めたので、家族はじいさんの霊に取り憑かれたのではと心配した程だ。だが、山には私が騒ぎ立てるほどの魅力がたくさんあったのだ。渓流釣りに始まり、山菜、木の実、きのこ・・・。
ある時、手当たり次第に採ったきのこを家に持ち帰り、「なえだ竜くん。月夜茸ばっかりだな。」(せっかく採ってきたのに毒きのこばっかりだな)と一言。ガッカリはしたものの、的確に鑑定するばあさんはさん然と輝いて見えた。そしてじいさんという大きな財産を無くしたことを悔やみ、何故山暮らしに固執していたかもやっと理解できるようになった。それからは、きのこばかりではなく、山のことは山で生きてきたばあさんや両親が先生になった。
目からうろこが落ちたと思えたのは、山の中の植物や生き物、自然現象がとてもきれいに、そして今まで見えなかったものがどんどん見えるようになったときだった。特に、朝や夕日の斜めの日差しは、時としていろんなものをせつない芸術作品にしてくれる。新緑、紅葉はもちろん、朝露に輝く木々、山の谷間を漂う赤とんぼの群れ、晩秋の雪虫、かげろうの飛び立ち・・・。そして恨みの雪までも。素直に見られるようになった喜びと共に、見えなかった罪深さを感じた。
森に蜂を飛ばし、樹木の花の蜜を集める家業の養蜂やそれを営むことのできる得意な森の豊かさにも、はじめて誇らしく思うことができた。同時に広葉樹が減り気象が狂い始め、ハチミツの収穫が低迷している養蜂と、背景の森も少しずつ見えてきた。
本当は大好きだった森を、大切にしたいと思うようになり、ちょうど発足した『朝日町の自然を守る会』に入会した。そこには、あの無愛想だった山小屋の主人がにこにこと座っていた。
町作りにも関わりたくなり、町主催の行事やイベントにも頻繁に顔を出すようになった。私を苦しめた町の諸々のしがらみもだいぶ許せるようになった。
町の観光フレーズに、『町民一人一人が町のセールスマン』という言葉があったが、まさに私は町を出るとセールスマンになった。嫌われるほど朝日町の自然の高さを自慢した。卑下する気持ちはみじんもなくなったのである。
そしてその今年の秋、なにより大きな出会いを迎えた。私は軒下に放置してあった蜜ろうにつまづいて転んでしまったのだ。でき過ぎた話だが、本当にそれが私と蜜ろうの出会いになる。夕暮れ時、薄暗い部屋の中、初めて作った蜜ローソクは厳かに静かに灯った。あったかくて、優しくて、不思議で、ちょっとせつない、あの時の川原と同じ気持ちになった。感動で心臓がドキドキした。
今年は、あれからちょうど10年の秋になる。
(平成9年11月14日発行ビーズファーム通信より)