我は海の子 ちょっとだけ


 一人残業の夜、蜜ろうを溶かすプロパンガスの匂いや、静けさの中流れるラジオの音に、 ふと子どもの頃の房総半島での生活を思い出すことがある。生活といっても、 一年のうちわずか小一ヶ月程のものだったのだが。
 冬の間は、ミツバチの越冬のために房総半島(千葉県)のほぼ先端、千倉町、白子町、丸山町 にお世話になっている。山形でも冬を越せないことはないのだが、目的の栃の採蜜期までに満群の蜂に育てるためには、 雲のない冬と早い春、そして餌になる菜の花や椿の花粉が必要となるのだ。
 今は道路も良くなったので、国民宿舎の特別安い部屋を借りて、短期出張を繰り返しているが、 私が小さい頃父は、海辺の壊れそうな海女小屋を借りての長期出張だった。当然私たち兄弟にとって、 冬は父がいない季節だった。でも、あの頃は出稼ぎの家庭が多く、それが仕方のないことと子どもながらにあきらめていたことを思い出す。 それだけに、年に一度か二度、冬休みや春休みを少し余計に休んで、家族と房総にいけるのがなによりの楽しみだった。

  しかし本当は、父と一緒にいられることの他にも、たくさんの魅力が房総にはまっていたのだ。

 冬から春の房総は、山育ちの私にはまるで南の国に思えた。雪がない。花が咲いている。 冬なのに山全体に葉っぱがある。しかも昼間に輝いている。サボテンが生えている。 パインナップルのような木がある。道を歩いているとみかんの大きいのが足元にごろごろ転がっている。 話しことばが違う。そして海がすぐそこにあった。

 その六畳一間の何もない海女小屋で、プロパンガスとひとつのガスコンロで 母は炊事をまかなった。岩場から採ってきた海苔のみそ汁と、サバやアジの開いた干物が定番で、 なにより一番の好物だった。今でも房総では必ず干物定食を食べる。 きっと、知らず知らずのうちにあの頃の思い出に浸りたいのかもしれない。
 風呂はなっかたので、近くの銭湯へ行っていた。ちょっと恐かった。 漁師達大人の話し方がすごく暴力的に聞こえたからである。それに、筋肉隆々の腕や胸に、 ポパイのような”いかり”の入れ墨を持った大人達はもういなかった。
 もっと恐いこともあった。それは、あまごやから30m程海側に離れてあったトイレ。 ある夕方、一人頑張っていると、あの暴力的に話す大人達が用をたしに来たことがあって、 とびら一枚隔てて私は息を殺して怯えていたことがあった。彼らがいなくなった後も、海風が他の壊れたとびらをバタン バタンと鳴らし、波の音は今にもトイレごと飲み込みそうな音を響かせ追い討ちをかけてきた。 そのトイレも今はもうない。恐さは、全て寂しさに変わった。
 海女小屋の周りには、使わなくなった小さな木製の漁船がいくつも置いてあったので、わたしたちは兄弟いつでも漁師になれた。 船の中には、道具を入れる引き出しや足下の板をスライドさせると魚の収納スペースがあって、そんな簡単なからくりにワクワクさせらたものだ。
 凧あげも大好きだった。なにしろ海風がどこまでも凧を高く飛ばさしてくれる。凧の糸は、釣りのリールを使った。凧が点になって見えた。
 早起きして日の出には感動した。真っ赤で大きな太陽が、ゆっくりゆっくり顔を出し、その下で漁師が漁をしていた。
 テレビはもちろんなっかたので、ラジオを聞くのが習慣だった。小さな赤いラジオは感度を良くするために、コンセントにつながる電線の近くにいつもぶら下げられていた。 時折、楽しい内容みんなだまって聞き入ると、波の音が窓を抜け優しく聞こえてきた。おかげで今も生活からラジオは欠かせない。 そういえばそのラジオは、私たち兄弟にとても重要な情報をいつも教えてくれていた。 それは天気予報のあとに教えてくれる波の引き潮の時刻。この引き潮こそがなによりの楽しみだったのである。

潮が引き始めると、隠れていた磯場がしだいに姿を現し、しまいにはあちこちに大小さまざまな水たまりができた。 その現象も然ることながら、水たまりには心ワクワクさせる生き物がたくさんいたのである。 せわしなく動き回るヤドカリやカニ、さわると引っ込むイソギンチャク、墨を吐くアメフラシ、不気味なヒトデ、へばりついたいろんな貝、 そしていろんな魚。そこで私たち兄弟は、いつもまるで獲物を見つけた猫になるのである。
 ある朝、大きな水たまりでタコを見つけたことがあった。さすがに手に負えず父の協力を求めた。父はどこからか長い竹の棒を持ってきて、 簡単にタコを地上に引き揚げた。初めて見る実物のタコに大騒ぎになった。いったいどこをどう持てばいいものか。果敢な兄がまず触った。 「うわーうわぁー」と言う騒ぎ具合に、しばらく私はたじろいてしまったが、勇気をふり絞って触ってみた。吸いつく吸いつく、 全身から力が抜けてしまいそうだった。
 そして問題が起きた。どうやって食べるかという家族の会話が始まったのだ。私は猛反対した。そしてバケツに入れて持って帰り、 じっと観察した。見れば見るほど愛情が芽生えてしまった。私は山形で飼うことを決意した。しかし、もちろんそれは、はかない夢に終わってしまった。 夕方父の仕事から帰ると、タコはバケツから抜け出し玄関の片隅で砂だらけで死んでいたのだ。とても悲しかった。母が茹でダコにしてくれた。 悲しかったが、とても美味しかった。

 不思議な体験がひとつある。昼ご飯を食べている時だったと思う。ふと見上げた海女小屋の窓からそれは見えた。 青空に輝くイガイガの大きな光の玉右上から左下に尾を引きながらゆっくり落ちていくのを。 驚いて窓に駆け寄ったが、もうその姿を見ることはできなかった。そのころテレビでは、”エスパー”が人気だったので、 きっとUFO が爆発して海に落ちたのだと確信していた。

 そんな房総から山形へ帰る日は、いつも最も悲しかった。こっちの小学校に冬の間だけ転校したいと、だだをこねたりした。仲良くしていた野良犬や猫との別れもつらかった。 そして帰路。夜の鴨川有料道路を越え、湾岸姉崎(市原市)のコンビナート幾千のきれいな明かりを見るのが最後の楽しみであり、 あきらめと眠りの時だった。

(平成9年6月26日発行ビーズファーム通信より)